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セレンディピティ

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歴史メモ

一坪 一反 一石の由来 [ 歴史 ]
一坪というのは、平均して、人一人が一日に食べる量のお米がとれる面積を表したもの。

一反は、一坪の360倍(現在は300倍)で、人一人が一年間に食べるお米ができる面積。

この一反の田んぼで、できるお米の量、人一人が一年間に食べるお米の量を

一石といいました。

by井沢元彦



アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、つまり丘をいいます。

数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後からやってきた

人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。

昔の家は粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。

そして、ついには丘にまで成長したのです。

チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。

しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が

肥沃な農業の適地となりました。

チャタルフュイックに、最も早い時期の人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。

BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、

小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。

また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。

チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。

チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェ

ナッツ、アーモンドなどを食べていました。

主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に

描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。

チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、

チャタルフュイックに1000年以上先行するジェリコの遺跡で黒曜石が出土しています。

そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。

エリコの住人が、チャタルフュイックに住み始めた理由が、

黒曜石の採掘にあったというのは既に書きました。

集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、

間に道路がありませんでした。外側の壁には入口がなく、人々は

木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で

所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。

窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの

人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。

チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。

死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの

清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。後世の鳥葬の原型です。

チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプや石臼が、出土しています。

小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた人間は、

すばらしいと思います。そこから無限の可能性が広がりました。

スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。

家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく

人々は顔を突き合わせて住んでいました。まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、

身の回り品や当座の食料については、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要が

あったのではないか。無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、

所有権をはっきりさせる必要があります。

しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす唯一の

手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、自分の衣類や、

穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。

印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです


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